日記Ynas9903
99年1月〜3月の日記です

1999年1月
ようやくこのころになって 私の心中は「母さんは『呆け』の病気だ」と思うように
なってきた。呆けにもいろいろある。本を読んで一喜一憂ことがたびたびあった。
1999年1月16日(土)
1999年1月18日(月)
「としこさんが お客さんの前でも何でも、わーわーと言う、あれがいやなんやて」と言った。
1999年2月中旬
2月になって岐阜県立病院で その「何か」が一通り終わって
尋ねたが病名や原因についての所見はなかった。
私は「ボケでしょうか」と聞いた。先生はことばをにごしながら
「その傾向はあるようですね」と言われた。
「2ヶ月くらい仕事を休業してみたら・・そして 様子を見てみましょう 」
とも言われた。
「様子を見てみましょうね」..
.「様子を見てみましょうね」。私はこの答えに不満であった。「様子を見て」
いる間にどんどん悪くなってしまったらどうするのだ。母さんの頭の中はどう
なっているのだ とか どういう環境が必要かとか 本人に何をさせるかあるいは
何をさせないか 食べ物は 薬は とか わからないことばかりだった。少しでも
知りたいと思った。 しかし
. 私は「ボケでしょうか」と言う質問したが ボケ の意味については少し
しか知っていなかった。
. いなかで育っていた 子供のころのことだった。 となりの集落のじい
さんが あちこち歩き回る癖がある、そのうちに川に落ちて亡くなられたと
聞いた。ボケていたそうな とも聞いた。じいさん本人や ご家族のことなど
想像もしていなかった。その程度の意味理解での質問だった。
その程度の理解の私に「仮に アルツハイマー病であるとしたら ・・・・」として
ボケの種類や、病気の進行度合いによって 本人が注意すること 家族が心が
けること 薬や 施設まで 説明することは諸般の事情から困難であったかも
知れない。
今後発生する患者には制度として 説明する機会を作っていってほしいと思う。
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精神病院へも診察に.....
1999年2月下旬
精神病院がどういう病院かも知らず 精神病院へも診察を受けに行きました。
「診察」ではなく「医療相談」として院長先生の話を聞くことが出来ました。
. ボケが治らないとする先生方と 治るという先生方と分かれています。
日本では直らないと言う先生方が主流ですから県立病院の先生もその立場
でしょう。私もその立場です。「何とかしてあげたい」というお気持ちも強
いでしょうから そういう病院を探しておいでになるのも一方法でしょう
わからないことばかりの状態だったのに 少しずつわかりかけてきた。
感謝をして 病院を出た。
「悪くなってしまってからでは何とも出来ない」と言うことを前々から
聞いていたので何とかしなければと言う気持ちが強くあった。
病名はわからないが 物忘れをする。 計算に弱くなった。ということはある。

1999年3月1日(月)
店のおつりの計算が出来なかった
作業料金だけの場合は消費税込みで 単純である。
化粧品を買っていただいた場合、表示価格に税金を加え
それに作業料金を加えて計算する。それを1万円から差し引くと
(つまり おつりは)いくらになるか?。ちょっと複雑である
1999年3月00日
何病かわからぬが、頭や 気分の病気というものは あまり興奮状態、
怒りや恨みの執念を継続することを避けねばならない。そのまま固まってし
まうことがなきにしもあらずだから、
1999年3月08日(月)
仕事のミスが細かいところで時々出ている、お客様相手の仕事と言うことになると、
すべての側面にわたって、それなりのレベルが要請される。としこさんが最低限の
信用を保持しようと、ミスの補正を助言し、帰られた人の場合は、再発防止のため
の助言を 母さんにしてくれる。
そのことが母さんにとって「としこさん怒る」と受け取ってしまう。
母さんが 「としこさん怒る」などとしゃべっていると反感が、こうじて興奮状態
になってしまった。時間が経って静まったが、医者にも「ゆっくりなさったら」と
言われていることだし、一定期間休業にすべきと私が判断した。
そのことを言いに行くに付いて 母さん本人の前で、病状について、しゃべると、
母さんの機嫌が悪くなってしまう。
病気の治癒を最優先せねばならぬ、ここは私が悪者になって言いに行く。
休業して、再開できるかどうか、展望がない。としこさんも都合があるだろ
うから 展望がない状態で待機していてもらうことも出来ないだろう。
3月分の途中経過のの給料と退職金はないが、半月分相当額とを持って、
「当分休業します」と言いに行った。
としこさん「そんなことはいかん」
「病名はわからないし、どうなるか展望もありません」
「そんな急に、お客さん第一に考えて、もしそうするなら連絡してからでないと」
「とりあえず3日間だけ休みにするから」
「私はきょうだいやから 行きたい時に行く」
けんか別れのようなことになったしまったが、3日間だけは休んでもらうことに
した。 けんか別れのようなことになった原因は 私の現在の病気についての一般的
知識の不足と、母さんの病状について医者の診断もはっきりせず、対応方法わからず、
展望ももてなかった ためである。周囲の誰もが 新聞、雑誌、テレビ、世間話、
以上の認識を持っていたわけではない。
それと、私の「呆けなら呆けで しまいまでめんどうみる」という気持ちが
としこさんに伝わっておらず、としこさんが行く末に不安をいだいていた。
どちらも 「母さんに できる限りよりよい対応をしてやろう」とする気持ちが
思いあまって「こっちの方法がいい」とする 立場から 言い争いになって
しまった。
1999年3月09日(火)
1999年3月10日(水)
1999年3月11日(木)
娘の高校入試の合格発表のある日だった。その日は朝から寒い日だった。
娘は前日から「もう落ちたわ、落ちてるわ、見に行かんでもええわ」
と言っていた。
「そやけど見に行かんわけにはいかんやろ」
と促して学校へ行った。風が吹いて寒かった。
遠く離れた畑の中の道路に車をおき、歩き出したが
門を入るのがおっくうのようだった。
奥の方に入っていくと中庭は、騒いでいる人でいっぱ
いだった。 掲示板には 番号順に受験ナンバーのみ書
き出されていた。娘はそれを確かめるように見ていた。
あればどのあたりにあると言うことはわかっている。
娘が、「あったよあそこに」と言った。 「そうか」と、私も
番号を確認してから「母さんに電話しなさい」と言って電
話をさせた。それからが大変だった。スリッパも用意せず
筆記用具も持たず、外での寒さに数時間耐えるだけの
服装もしてこなかった。が手続きは無事終了させた。
家にいた母さんはとしこさんに
「入試、受かったって、お父さんが夕べ(昨晩)聞いて来
たよ」と言っていた。夕べ(昨晩)聞いて来るということは
ありえないことだった。
◎今日としこさんが店に来ていた。母さんが電話をしたとのことだった。
そのことで、二人に別々に確かめたところ
母さんは「としこさんがね、どこにもいくとこないしって言っているし」と。
としこさんは「靖子が『来てくれる?』と言っていた」と。
違うことを言っていた。状況からすると、母さんが作り事を言っているようだった。
このあいだ あんなに興奮して 私に言いに行かせたのに 「何を考えているのだ」
と思った。「静まればやはり姉妹だな」と思った。
1999年3月12日(金)
1999年3月19日(水)
娘が合格発表のあと 13日ごろから軽い咳が出始め、日に日に咳がひどくなって、
今日当たり5分おきぐらいに咳をしている。寝ているあいだも咳をしていたと言うこと
だ。熱は出ていないようだが原因がわからない。
1999年3月20日(木)
今日は、前からの計画で、日帰り旅行に行くことになっていた。娘の咳が止まらないので
中止しようかと相談した。母さんは「暖かくしていったら」と中止しようとしなかった。
1999年3月25日(木)
娘の咳 いっこうに止まらず。何か悪い病気か。
高校へ行けるのかな。
かかりつけの ○○小児科へ診察に行った。検査の結果「花粉症 その他のアレルギー
ですよ。すぐ治りますよ」と言われた。
1999年3月31日(水)